06.30 苦難の中の力


 夏目漱石の『坊っちゃん』は、西洋文化を無批判に取り入れ近代化していく明治期の日本の世相を憂えた作品であると言われています。
 主人公が重んじる『義』や『理』をないがしろにし、権力を笠に着て私利私欲に走る赤シャツや野太鼓が、果たして西洋的であるか否かはさておいて、彼らが強要してくる『理不尽』に対して、他に抵抗する術を持たず暴力に訴えるしかない主人公が吐くのが『無法でたくさんだ』というセリフです。

 私たちの社会は法律によって秩序を保たれており、法律を守ることが国民の義務であることは議論の余地がありません。『無法でたくさんだ』は一見暴論です。けれど、法律は神から与えられるものではありません。私たちと同じ現在のこの社会で生きている人間が作っているものです。

 国民の生き方は、その国の法律によって規定されます。ときによっては、法律は人の生き死にさえも左右します。だから、本来国民は立法権を持つものを厳しく監視していなくてはならないし、常に検証を怠ってはならないはずです。でも、それぞれの生活を抱えている私たちはついそれを怠りがちです。法律について深くまじめに考えたり議論したりするよりも、決められた法律に唯々諾々としたがっている方が楽です。

 けれど、国民が法律の是非に関して無関心になり、すべてを無批判に受け入れることはとても危険です。気がついたら取り返しの付かない悪法が成立している、という可能性は、この国では決して低くないと思います。メディア良化法は決して絵空事ではありません。

 繰り返しますが、法律は神から与えられるものではありません。人間が作るものです。
 民主主義を掲げる我が国では、法律は多数決で決まります。
 政治というのは利害調整ですから、ある法律を巡って利害が対立するとき、多数派の意見が優先され、少数派は切り捨てられます。正しいか否かではなく、単純に支持する人間の数が多いか少ないかで法律というのは決まるものです。そして、この国にはもうひとつ資本主義というポリシーがあって、多くの場合、お金をたくさん持っている者が政治的な多数派となり、正義となります。
 これらの制度の下で定められる法律がすべて正しい保証はどこにもありません。このあたりに漱石の憂鬱の原因がありそうです。

 かつてソクラテスは悪法も法なりという言葉を遺し、法治国家の基本理念を説きました。どんな場合でも、ルールを破った暴力行為は許されない。法律に対抗する場合も、ルールに則った手段をとらなくてはならない。それは認めざるを得ません。
 しかし、自分のいいように法律を作ろうとする『強者』はそれを利用します。民主主義を謳った独裁国家はいくらでもあり、そういう国の権力者は、合法的な抵抗ができないようなシステムを巧みに作り上げるものです。もはやそうなると、抵抗する手段は坊っちゃんが赤シャツを殴った如きテロ行為しかなくなります。

『図書館戦争』は非常に優れた寓話だと思います。
 パラレルな世界とはいえ、昭和が終わるまで現実と同じ歴史をたどった日本が、30年やそこらで独裁国家になっているとは思いません。むしろ、中央と地方の対立を根拠に矛盾した法律が成立していたり、権力が法律を自分たちの都合のいいように拡大解釈していたり、現実のこの国のシステムの秀逸なパロディになっていると思います。そして、だからこそ図書隊には法的根拠があり、どんなに歪んだ形ではあっても彼らの戦いは遵法闘争なのだと思います。
 一方、郁たちの生きる社会とよく似た私たちの社会も、一見平和で、民主主義の下に平等な社会を実現しているように見えていながら、様々な部分にひずみを生じさせています。冷戦時代の独裁国家とはまったく違う形での、支配、被支配の構造が──新しい形での「理不尽」が、民主主義と資本主義の最先進国というべき私たちのこの国で生まれつつあるような気がしています。
 国のルールは強者に都合のいいようにどんどん作り替えられ、それに抵抗しようとしても、多数派にならなければ政治的な「力」にはなり得ない民主主義の制度の中で少数派は黙殺されていくばかり……そんな閉塞感を感じたとき、私はつい『坊っちゃん』の「無法でたくさんだ」というセリフを思い出してしまいます。

 暴力に訴える必要ながなければ、それはそれで幸いなことだけれど──大勢や世間の風潮に流されず、強者の理不尽に立ち向かう、坊っちゃんの如き『義』や『理』を一人一人が心の中に持っていて欲しい──。そんな気持ちを込めて、最終話を書きました。

 アニメ『図書館戦争』をご覧頂いたみなさん、ご視聴本当にありがとうございました。関西など、まだ放映が続いている地域の方もいらっしゃると思いますが、キー局では無事に放送を終了することができました。ご視聴下さったみなさんに、心からの感謝を込めて──。