09.27 新聞の記事で泣いちゃうなんて

 新聞の記事を読んで泣いたりしないよね、普通。それも朝っぱらから。

 朝日新聞のスポーツ欄に西村欣也という方が書いているコラム『EYE』が面白いです。あのコラムと「ののちゃん」が読めるだけで、朝日をとる価値は充分にあると思うくらい(笑)。しかし、26日朝刊の「今よみがえるジョー」というコラムを読んだときには、なぜか涙があふれてくるのを止めることが出来ませんでした。

 今、アメリカ人の間で90年も昔の野球選手、“シューレス”ジョー・ジャクソンのことが話題になっている。なぜなら、イチローがメジャーの新人最多安打記録を樹立しそうで、過去の記録を調べてみたところ、これまで最多とされてきた選手が2位であり、ジョーが1位だったということがわかったからだ。好打と快足で名選手となったシューレス・ジョーは、その後八百長事件に巻き込まれ、メジャーから追放される。映画『ナチュラル』はジョーをモデルにしているし、『フィールド・オブ・ドリームス』では、主人公がトウモロコシ畑を切り開いて作った球場に、ジョーが蘇る──。アメリカの野球ファンにとって、特別な存在であるジョー。そのジョーを、記録を作ることによってイチローが蘇らせた。東洋の島国から、自分の技だけを頼りにメジャーになぐり込んできた青年が──。誰かの記録に追いつくたびに……ジョー・ディマジオを蘇らせ、、今また伝説のシューレス・ジョーを歴史から復活させる……。

『ナチュラル』は、あらゆる映画の中でも一番好きな映画ですが、正直行って『フィールド・オブ・ドリームス』はピンと来なかったんです。見る前の期待が大き過ぎたからかも知れないけれど……。でも、あの映画の名セリフが、今揺るがしがたい実感をともなって浮かび上がってきます。

「君がそれを作れば、彼はやってくる」

 今、この言葉はイチローのためにあります。イチローの活躍が往年の名選手たちを蘇らせてゆく……。この記事を読みながら、前日のイチローの活躍を伝える上の写真を眺めていたら、なぜか涙があふれてきてしまいました。

 近鉄バファローズがこれ以上ないというぐらい劇的な形で優勝しましたね。日本の野球もまだまだ捨てたものではありません。おそらくヤクルトと戦うことになるであろう日本シリーズが楽しみです。

 で、そういう素晴らしい出来事の一方で、世界を闇が包みつつあります。アメリカの報復攻撃をやめさせるよう、日本が働きかけるべきだという意見を、例によって「平和ボケ」と称してバカにするような記事が雑誌に掲載されている。私にいわせれば、というか、どう考えてもそれが正しい用法だと思うのだけれど、平和が当たり前になって……平和に飽きて、戦争がいかに悲惨なものかも忘れ、安易に戦争をしたがるような人間こそを「平和ボケ」と呼ぶのではないでしょうか? もし、戦争がどんなものか忘れてしまったのなら、映画『カジュアリティーズ』を見ることを勧めたいです。『フルメタルジャケット』でもいいけど……。『プライベート・ライアン』は見ていないのだけど、今回のケーススタディとしては、WW2よりヴェトナム戦争の方が妥当でしょ。
 戦争をするべきだという人は、自分が、自分の友人が、夫が、恋人が、子どもが、愛する人がこういう目に遭うのだということをよく噛みしめていただきたい。

「目には目を、の理論での報復は、憎悪の連鎖を生み新たな悲劇を起こすだけだ。それはわかっている。でも、自分の身近な人がテロにあった場合、特に妻や恋人や子どもを殺された男ならば、何をなげうってでも敵をとるべきだ。その気持ちは分かる。だからこの問題には答えが出ない」──。この野球解説者の豊田泰光さんの意見はすごく正しいと思います。だから、私はアメリカが報復するのは仕方ない、という気もします。しかし、日本は──。確かに日本人の被害者は出ているけれど、今回のテロは直接日本に向けられたものではなく、いわば巻き込まれた形です。「テロリズムと戦う」という首相の主張は大義名分ではあるけれど、今アメリカが起こそうとしているのは、宗教と経済の問題が入り交じった奥の深い因縁に起因する戦争であり、決して悪者討伐ではありません。同盟国や先進諸国のご機嫌をとろうなどという浅はかな考えでのこのこ出ていったら、取り返しのつかないことになります。

 個人的に「戦争とは何か」と尋ねられたら、私は即答します。「国家による合法的な大量殺人である」と。この回答に例外はありません。さらに付け加えるならば、「資本主義国家が引き起こす戦争に限って、それはいかなる大義名分があろうと、実のところ人命を犠牲にした経済活動である」と。誰かのお金儲けのために命を危険にさらすのはまっぴらごめんです。


09.20 野生の王国

 なんか私がひとりで盛り上がりまくっている感じの(笑)わが家の守宮たちの話なんですが。

 守宮観察(といっても、カーテンを開けて窓を見ているだけ)の最近の成果をお見せしましょう。ついに決定的瞬間を捕らえることに成功しました!

 以前ここで、一匹と思っていた守宮が実は二匹いたということを書きましたが、そのときは本当に二匹なのか、実はもっといるんじゃないか、喧嘩してるし仲が悪いんじゃないかと思っていたんですが……。

なーんだ、きみたち、そーゆー仲だったのか(笑)

 それならそうと早く言ってくれればいいじゃないか。おじさんはきみたちのどっちかがどっちかを追っ払っちゃうんじゃないかと心配したんだぞ(笑)。
 なんと、こいつら爬虫類のくせに、しっかり抱っこまでしてます(矢印のところをよく見て下さい(笑))。なんてプリチーなんでしょう。
 ……もしかしたら、ここを読んで下さっている方の中には、爬虫類のたぐいが大ッ嫌いな方や、気の弱い女性の方もいるかもしれませんね(^^;)。いきなりちょっとグロな画像でごめんなさい(グロついでにエロもちょっと入ってますな(^^;))。でも、基本的に怪獣が好きで爬虫類が大好きな元少年や、野生動物の生態観察に目がなくて、古くは「野生の王国」や近年では「動物奇想天外」を見るのが好きで堪らないという同好の士のみなさんには、さらにショッキングな画をお見せいたしましょう。

『俺は三度の飯より動物が好きだ!』という好奇心旺盛な方のみClick!

 もしかして、来年の夏はこいつらの子どもたちがわんさか……?(^^;)


09.15 想像力というやっかいなもの


昨日の続きで今日はガラモン。うーん、しびれる〜(笑)。

 昨日のコラムの件である方からご感想メールをいただきました。ありがとうございました。その中で非常に共感した部分があるので、ちょっと引用させていただきます。

『あの画を見るたび、過去に見たアニメーションや特撮と重ねている自分に気づきます。旅客機の激突する瞬間に、「コピー用紙が床に散らばるのも忘れ、窓の外に覆い被さるように拡大する旅客機の機首をただただ凝視するOLのカット」が挿入されていれば、もっとリアルに感じられるというのか? あの瞬間に、そしてその1時間後のあの崩落のときに、何百、何千という命が失われたハズなのに』

 これは私ももちろんそうですし、特撮、アニメファンの多くが感じていたことだと思います。そして、それがフィクションではなくシビアな現実であることに対して、私たちは共通して、いくばくかの後ろめたさを感じていたはずです。
 映画やドラマで悲劇をスペクタクルとして描く場合、それが娯楽としての一線を越えないように、意図的にそこから流血や残酷な描写を省くという作業が行われてます。そのために「事件」は私たちの中で記号化されたものとして残っています。現実の「事件」に直面したとき、それを伝える映像の断片から頭の中にインプットされた記号以外のものを自ら想像するのは至難の業かもしれません。
 そのことを恥ずかしく思う反面、しかし娯楽は娯楽として存在するべきだと思うし(シュワルツェネッガー主演作の公開延期は仕方ないとは思いますが……)、フィクション以上の事実がそこにあったであろうという想像力が働くからこその恥ずかしさでもあるわけで、単に「映画みたい」という感想でなければ、それを責めることは妥当ではないと思います。「真実」を知らないことが私たちの罪ではないと思いたいです。

 まったく余談ではありますが、ハイジャックされた機内から家族に電話をかけてきた乗客の逸話の中で、母親に「愛しているよ」と告げた男性の話や、CNNのコメンテーターだったという女性の話が印象に残りました。
「ねえあなた、信じられる? ハイジャックされているのよ」
 翻訳ですし、現実に英語で彼女がどう話したかはわかりませんから、これは勝手な妄想なのですが、新聞に載ったこの短いセンテンスから、私は彼女が自分がハイジャックにあったことに対して、ジャーナリストとして少なからずチャンスとして受け取ったのではないかという印象を受けました。犯人はナイフしか持っていない。必ずしも飛行機が落ちるとは限らない。無事事件が解決すれば、この体験は自分にとってのひとつのビジネスチャンスになる……彼女はそう思ったかもしれません。まさか、その一本のナイフが数千人単位の被害者を出し、あまつさえ戦争を引き起こすことになろうとは知らずに──。


09.14 GIVE PEACE A CHANCE


バンダイ・ガシャポン「ブルマァク魂」シリーズのカネゴン。
幼い頃、欲しくても手に入らなかった、または、持っていたのに壊れてしまった、
捨ててしまった、どこかになくしてしまったあの怪獣たちが、今、手のひらサイズになって戻ってきた! 
さすが西村さん、再現性は完璧だし、やることが違う! 
このシリーズが末永く継続されることを願ってやみません。

 

 嫌な事件ばかり起きて、気持ちがブルーです。それは自分の誕生日がどうでもよくなってしまうほどに。

 そう、去る9月12日は私の誕生日でした。掲示板にお祝いの書き込みをして下さったよしのさん、水原さん、ありがとうございました。すぐにレスもつけず、すみませんでした。
 このところ月イチ更新になっていて、さすがに誕生日ぐらいは更新しようと思っていたんです。しかし、11日の夜、子どもと一緒に寝てしまい、12日未明に目を覚ますと、そこで待っていたのはあの忌まわしいニュースでした。テロを起こした犯人たちが許せないのはいうまでもなく、また、今日までに何千回電波にのったかわからない、旅客機がビルに激突するあの映像の、あらゆるイマジネーションを凌駕した現実であることの恐怖、さらにそれが、バーチャルリアリティ時代の戦争といわれた湾岸戦争のバグダッドを空襲する米軍の映像よりはるかに強い説得力を持っていたことなど、物語で「暴力」を扱う者、映像の仕事に関わる人間の端くれとして、胸を過ぎる思いは様々なものがありました。

 友人にせっつかれ、やっとここでこの事件について語ろうとする今、もちろん現在も刻一刻と増え続ける犠牲者や合衆国市民の心の痛みにも思いは及ぶのですが、一方で、早くも報復攻撃が始まっているらしいということが一番の気がかりです。

 自国に無差別テロによる甚大な被害を与えた代償として、米国はテロの首謀者をかくまっているとおぼしき国にミサイル攻撃を開始したらしい。その国の市民のすべてがテロに加担していたというのならともかく(そんな馬鹿なことはない)、都市をミサイルで空爆すれば、そこには必ずやテロとは何の関係もない罪もない犠牲者が必ず出るでしょう。そこで起こるであろう悲劇は、マンハッタンの悲劇とどこが違うのでしょうか?

 百歩譲って(譲ってはいけないのだが)それはテロリストをかくまったその国の政府が悪いのだという理屈を呑めば、その人たちはその国のテロ支援という政治方針の犠牲者と言えなくもない。でも、だとすれば、アメリカでテロの被害に遭った人たちも、中東管理というアメリカ政府の政治方針の犠牲者ではないのか? 中東の民族的テロリストに恨みをかい、あんな残忍な攻撃を受ける危険性を伴う政策を、アメリカ政府はずうっと続けてきたわけで、それを非難する声がアメリカ国内には全くないのでしょうか? もちろん、コトが起きてしまった以上、今となってはそういう意見が表面に出て来づらいというのはわかります。何があっても、人命を奪うことで何かを主張することは許されないし、その意味ではアメリカに非はないのかもしれません。しかし──。

 人為的な暴力である以上、そこに至る背景が必ずあるはずです。しかし、いざ戦争が起きてしまうと、それまでの経緯は語られず、敵を倒すということだけに神経が集中してしまう。何があっても不可避な戦争など存在しないと私は考えます。クリントンやブッシュを選んだアメリカ市民は、その一票にテロの危険や戦争の危機が含まれていることを承知の上で投票したのでしょうか。戦争がどうして起きるのか、そして、市民たちはどうして心ならずもその戦争に巻き込まれていくのか。私たちは今まさにそれを見ているのかもしれません。そして、それは決して対岸の火事ではない──そのことが今、一番怖いのです。